久保の桜
 桓武天皇の延暦年間、坂上田村麻呂は征夷大将軍に任命され、蝦夷の反乱を平定するために東進していました。
あるとき、長井の荘を通りかかった田村麻呂は、土地の土豪久保氏の家にこの地の宿を定めました。
久保氏には一人娘のお玉というたいへん器量のよい娘がおりました。お玉は親身になって将軍をもてなし、この歓待に喜んだ田村麻呂はしばらくの間、この家に滞在しました。 二人が深い仲になるまでにそう長い時間はかからなかったといいます。
しかし、将軍の仕事は蝦夷の征伐であり、蝦夷の反乱が静まると京都へ帰らなければなりませんでした。 田村麻呂は再会を約束して京都へ帰っていきました。その後は、いつまで経っても何の便りもなく、田村麻呂の面影が忘れられないお玉は食べ物も喉を通らなくなり、しまいには病の床に伏してしまいました。
そして、両親の看病の甲斐なく、ある早春の夕暮れ、いとしい田村麻呂の名を呼びつつ言切れてしまいました。
のちにこのことを知った田村麻呂は娘の死を悲しみ、摂津は麻耶山の桜を送り、娘の墓前に手向けました。その木はすくすくと伸び、毎年、お玉を思わせる可憐な花を咲かせています。